石川理紀之助翁の生涯

農聖といわれる石川理紀之助翁は、弘化2年(1845年)2月25日、羽後国秋田郡金足村小泉(現 秋田市金足小泉)に、奈良周喜治の三男として 生まれ、力之助と命名される。

石川理紀之助翁生家

石川理紀之助翁の生家


石川理紀之助翁は、11才のときに菅江真澄の墓を詣でて初めて歌を詠んでいる。
『なき人にしたふ心やかよひけん思はずけふの時にあふとは』
即座に歌を詠むほど賢く、当時から「神童」といわれていた。石川理紀之助翁は、和歌の道にも精通しており、 生涯にわたって歌を詠んでいる。
石川理紀之助翁は、21才、慶応元年(1865年)に山田村の石川長十郎の娘すわの婿養子になる。 このとき、名を力之助から理紀之助と改め、石川理紀之助としての生涯がここから始まる。

山田村は戸数25戸の小村で、石川家はその中の地主だった。その後の石川理紀之助翁は、 「小作米取立法」を作り、地主と小作人との争いを終焉させる。また、山田村の有志を集めて、「山田村経済会」を設立している。
この頃慶応3年(1867年)に、長男民之助が生まれている。戊辰戦争で徴兵され、帰村後、山田村肝煎後見役となり、秋田藩の検田法を研究する。 明治3年(1870年)次男老之助が生まれる。
明治5年(1872年)秋田県租税課に出仕する。その後、腐米改良事業に取り組み種苗交換会を始める。明治16年(1883年)官職をやめ山田村の経済再建の ため、山田村経済会を組織し、救済活動を始める。
明治20年(1887年)長男民之助が家出。千島列島で無残な遺骨と対面する。この頃から青少年育成のための夜学指導を始める。 明治21年(1888年)農商務省で山田村経済会の実績について講和する。明治22年(1889年)山田村救済第1期の目標を達成し、草木谷に山居する。
明治27年(1894年)東京における第1回農事大会にて大日本農会より日本一の老農として「紅白綬有功賞」を授与する。明治29年(1896年)適産調を始める。 (適産調については、石川理紀之助翁の業績を参照)。
明治35年(1902年)宮崎県で開田の水利事業に取り組んでいる前田正名氏に事業協力する。
このころ古人の書を子孫に伝えるための古人堂文庫を建てる。


石川理紀之助翁 古人堂文庫 石川理紀之助翁 古人堂文庫

古人堂文庫



明治36年(1903年)、石川理紀之助翁が59才の時に、後継ぎの老之助が病死。 草木谷にあった老之助の小屋を本宅上の丘に移して、「梅廼舎」(うめのや)と名づけ、 孫達の心の拠り所とした。


石川理紀之助翁 梅廼舎 石川理紀之助翁 梅廼舎

梅廼舎(うめのや)


石川理紀之助翁 梅廼舎

梅廼舎の中に貼られていた石川理紀之助翁直筆の書



明治45年(1912年)強首(こわくび)村九升田の救済に着手する。大正3年(1914年)夫人スワ子病没。大正4年(1915年)強首村九升田指導第一期完了。
同年9月8日、石川理紀之助翁71才にて永眠する。

石川理紀之助翁 墓所 石川理紀之助翁 墓所

石川理紀之助翁、石川家墓所

石川理紀之助翁 墓所

石川理紀之助翁の墓



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