事業と業績

  • 慶応3年(1867年) 農業耕作会をつくる。
  • 明治2年(1869年) 肝煎後見役となる。
  • 明治5年(1872年) 秋田県租税課に出仕する(牧畜係)。
  • 明治10年(1877年) 内国勧業博覧会のために上京する。途中各県の農業視察。勧業議会第一支会をつくる。
  • 明治11年(1878年) 腐米改良事業に着手する。種苗交換会を始める。
  • 明治13年(1880年) 歴観農話連をつくる。
  • 明治16年(1883年) 官職をやめて農家経済の道を教えるために村に帰る。
  • 明治18年(1885年) 山田村経済会を作り救済事業を始める。(村の借金、元利とも4,900円 7ヵ年で返済の計画)
  • 明治21年(1888年) 農商務省で農家経済について講話する。(農商務省公報によって全国に配布
  • 明治22年(1889年) 山田村救済第一期の目標完遂。草木谷に山居する。
  • 明治27年(1894年) 第一回農事大会に出席。大日本農会より「紅白綬有功賞」を授与せらる。


  • 石川理紀之助翁

    石川翁資料館のパンフレッドより、明治27年(1894)12月、大日本農会会頭、北白川宮能久親王殿下より、 「農事奨励のため九州各区県下巡回を委嘱す」との辞令により、翁が秋田を出発する時の姿。



  • ・明治29年(1896年) 適産調を始める。
  • 適産調とは、適地適作の調査、そのための土壌調査、耕作反別、人口、戸数、各種産物、その生産高、自・小作反別等の経済調査、 農作業や生活の慣習とその状態等の各種さまざまな分野に関して精密に調査して、その村の将来への指針と、その実施方法を具体的に 提示している。
    石川理紀之助翁の行った適産調は、「町村是制運動」の一つとして行ったとの見方がされている。



  • ・明治31年(1898年) 凶作に苦しむ農民救済のため巡回指導。草木谷山居焼失。
  • ・明治35年(1902年) 同志七名とともに宮崎県に行き前田正名の開拓事業に協力して部落指導に当たる。適産調終わる(2町49町村について)。
  • ・明治43年(1910年) 県産米検査部長となる。
  • ・明治45年(1912年) 乾田適地調査を行う。仙北郡強首村九升田部落の救済事業を始める。
  • ・大正2年(1913年) 凶作のため県内をはじめ東北を巡講。
  • ・大正3年(1914年) 平鹿郡角間川町木内部落の指導にとりかかる。
  • ・大正4年(1915年) 強首村九升田部落指導第一期完了。9月8日永眠。



  • 石川理紀之助翁石川理紀之助翁

    翁は、秋田の二宮尊徳と称されていました。



    石川理紀之助翁

    翁の記念碑は、秋田市にある日吉八幡神社内にあります。



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